校友会訪問記

昨年5月に、東京工科大学名誉教授 星徹様から、親子2代にわたり成城学校で教鞭をとっておられたご祖父様についてのお問い合わせがあり、事務局 倉島が対応し、以下の訪問記を頂いたので掲載致します。

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成城学校校友会訪問記:

成城学校創立期から明治・大正・昭和にかけて親子2代で教鞭をとった服部章・操の足跡を辿る

2025年7月15日、成城学校校友会に事務局長倉島喜一様を訪問させていただいた。

目的は、成城学校創立の明治初期から昭和初期までの約40年にわたり親子2代で成城学校に奉職した服部章と服部操の足跡を辿ることである。彼らは私の曾祖父と祖父である。しかし残念ながら彼らの足跡はほとんど知らなかった。この度、彼らの足跡を辿ることを思い至り、成城学校校友会に連絡を取らせていただいたところ、快く訪問を受け入れてくださった。

校友会事務局訪問当日には、成城中学校・成城高等学校卒業生で、現在東北大学在籍の歴史研究者中川喜弘氏が仙台からわざわざ来ていただいていた。事前に校友会が所有する史料『成城学校80年』、『成城学校百年』、『大正六年三月卒業記念写真帖』、『成城中学校第三十二回五年生 記念写真帖(大正七年三月)』など、多くの史料から服部章と服部操に関係する記事、写真、記録などを探し出してくれていた。そのおかげで、彼らの足跡を効率よく調べることができ大変感謝しています。彼らの成城学校への採用時期や退職時期等の勤務期間、担当した教科など、大よその活動内容を知ることができた。

『成城学校百年』の集合写真のなかに曾祖父が写っている写真が見つかった。成城学校のお宝の記念写真となっている明治23年の久邇宮邦彦王殿下の入学記念写真に陪席している。ほとんど初めて見る曾祖父の顔である。

また、大正6年と大正7年の2冊の『記念写真帖』に当時の先生方の集合写真があった。両方の集合写真に祖父が写っていた。こちらも初めて見る壮年期の祖父の顔である。

後日、今回見せていただいた史料と、他で集めた史料を整理し二人の略歴をまとめてみた。

(1)(親)服部章の略歴

弘化4年(1847年)誕生(明石藩)

明治12年(1879年)上京

明治13年(1880年)埼玉県中学師範学校教官

明治18年(1885年)(成城学校創立)

明治19年(1886年)埼玉県中学師範学校退職

明治19年(1886年)成城学校に就職。国語漢文科教員(担当教科:倫理・歴史)

明治30年(1897年)成城学校国語漢文科 退任

明治30年(1897年)彦根中学に就職

明治35年(1902年)彦根中学を辞職、帰京

明治36年(1903年)錦城学校就職

明治43年(1910年)死去

明治44年(1911年)『愛軒遺文』(全3巻)出版

服部章の足跡について、成城学校に勤務したこと含めて殆ど聞かされていなかった。それなので、新発見のことが色々あり興味深かった。

明治維新で武士が廃業となり、服部章もご多分に漏れなかった。東京に出て中学教員となり、埼玉県中学師範、成城学校、彦根中学、錦城学校と複数の学校で教鞭をとるという落着かない教員人生を過ごした。成城学校の設立は明治18年ということなので、明治19年に就職ということは、まさに成城学校創立間もない時から国語漢文科教員として奉職したことになる。

服部章のもう一面は漢学者としての顔である。明治中期まで盛んだった漢学者が集い漢詩を読み批評しあう文社活動があり、麗澤文社、廻瀾文社などの代表的な文社に参加している。漢詩を詠じる会合の様子などが随筆として多く遺されている。文(漢文)を作ることに長けていたようで、学問、教育、政治、趣味、風雅、社会、友人など、多岐にわたるテーマの随筆を残している。(長男)操が厳選し編集した『愛軒遺文』には70編の漢文随筆が収録されており、明治44年に出版されている。ちなみに愛軒は章の号である。

(2)(子)服部操の略歴

明治7年(1874年)誕生(明石藩、服部章の長男として誕生)

明治12年(1879年)一家で上京

明治19年(1886年)(父章、成城学校に就職。)

明治28年(1895年)東京専門学校(後の早稲田大学)英文科卒業

明治29年(1896年)成城学校英語学講師に嘱任

明治30年(1897年)(父章、成城学校退任)

明治31年(1898年)成城学校尋常中学英語科担当

明治36年(1903年)成城学校を退職

明治36年(1903年)中国四川省成都市 東洋予備学堂で、英語と日本語を教授(6年間)

明治37年(1904年)四川省楽山市 郭沫若家訪問。郭沫若全集「少年期」に記事あり

明治42年(1909年)帰国。成城学校に再就職。国語漢文科教員

大正元年(1912年)成城学校 外国語科教員

大正15年(1926年)『日華大辞典』編纂、出版

昭和3年(1928年)死去。成城学校による追悼文が「日華学会学会誌」(第7号)に掲載。

服部操については、祖母や母(服部操の娘)から、断片的に聞かされていたが、本人は早死にしたので直接会う機会はなかった。早稲田大学を卒業して明治29年に成城学校に奉職した。一旦退職し6年間ほど中国四川省成都市の東洋予備学堂に、国から派遣された日本語と英語の教員として働いている。帰国後、再び成城学校に勤務し国語漢文科教員、外国語科教員として教鞭をとった。とくに、中国からの留学生に対して熱心に教育していたようである。そして、昭和3年に在職中に急逝する。「日華学会学会誌」第7号に成城学校関係者による弔文が掲載されている。学生からも大いに慕われていたようである。服部操の晩年の事業として、『日華大辞典』の編纂がある。B4判で1200ページ、厚さ8㎝に及ぶ大辞書の編纂である。友人からの弔文に、辞書編纂の激務で寿命を縮めたとあり、もっともの事と納得がいく。

おわりに

このたび、服部章・操の足跡を、成城学校校友会を訪問し調査させていただく機会を頂いた。想像以上の多くの史料が見つかり沢山の情報を得ることができ、感謝しております。戦中、戦後の混乱で手元に残っている史料はほとんどないので、貴重な写真を見せていただいたときは感激でした。あらためて、成城学校校友会の倉島喜一様、歴史学者の卵の東北大学学生の中川喜弘様にお礼を申し上げます。

星 徹